看護師が適応障害と心身症で苦しみながら模索していく話。

看護師になって約8年。中堅と呼ばれる域に達してきて、期待や環境の変化、精神的ストレスなどで擦り切れて、適応障害や心身症になってようやく自分と向き合いながらみっともなく足掻きながら生きていくお話です。

ナイチンゲール誓詞の「わが生涯を清く過ごし、わが任務を忠実に尽くさんことを。」 「われは心より医師を助け、わが手に託されたる人々の幸のために身を捧げん。」が嫌いなんです。

看護資格を有するもの、これを暗唱した覚えは、うっすらとでも記憶に残っているのではないでしょうか。

看護学校に入り、臨地実習に入る前に、戴帽式というものが行われます。

手にろうそくを持ちながら、ナースキャップを装着してもらい、ナイチンゲール像から、

自分のろうそくに火をもらい受ける。

整列し、これを読み上げる。

看護師になるという決意を胸に、暗唱し、魂に刻み込むような儀式。

それは美しくも、厳かで、静謐。

 

われはここに集いたる人々の前に厳かに神に誓わんーーー

わが生涯を清く過ごし、わが任務を忠実に尽くさんことを。

われはすべて毒あるもの、害あるものを絶ち、

悪しき薬を用いることなく、また知りつつこれをすすめざるべし。

われはわが力の限りわが任務の標準を高くせんことを努むべし。

わが任務にあたりて、取り扱える人々の私事のすべて、

わが知り得たる一家の内事のすべて、われは人に洩らさざるべし。

われは心より医師を助け、わが手に託されたる人々の幸のために身を捧げん。

ナイチンゲール誓詞

 さて、これは実際にナイチンゲールさんが、看護師とはこうでなくっちゃ!

とか言いながら考えたものではありません。

 

ナイチンゲール誓詞[編集]

ナイチンゲール誓詞(Nightingale Pledge)は、1893年アメリカ合衆国ミシガンデトロイト市にあるハーパー病院(Harper Hospital)のファラン看護学校、校長リストラ・グレッター(Lystra Gretter)夫人を委員長とする委員会で、ナイチンゲールの偉業を讃え作成されたものである。

ナイチンゲールの看護に対する精神を基とし、医学に携わる看護師としての必要な考え方、心構えを示したものである。

医師にとっての「ヒポクラテスの誓い」にならって、看護師の戴帽式卒業式に、ナイチンゲール誓詞により誓いをたてる[1]

フローレンス・ナイチンゲール - Wikipedia

 

つまり、ナイチンゲールすっげえ‼‼ってなった、大人の方々が、こちらを作成したのです。

ついでに、これの元になっているのが、ヒポクラテスの誓い。

ヒポクラテスの誓い - Wikipedia

医の神アポロンアスクレーピオスヒギエイアパナケイア、及び全ての神々よ。私自身の能力と判断に従って、この誓約を守ることを誓う。

こっちは神様に誓っていますし、いまいち現在と時代背景が違うからか、しっくりこないとは思いますが。

 

 

 

んで、なぜ今これを持ってきたのかというと、

ナイチンゲール誓詞の一節の、

「わが生涯を清く過ごし、わが任務を忠実に尽くさんことを。」

「われは心より医師を助け、わが手に託されたる人々の幸のために身を捧げん。」

 

ここです。

この二つ。

志もない若造がとりあえず持っていくべき心構えとして、これはあっていいとは思うけど、いかんせん重い印象を受ける。

二つ目なんて、自己犠牲を良しとしている。

それが正しいと、美しいと、彼らは言っている。

 

それを宣言した私たちは、本当に美しいのだろうか。

看護師が過労死して、追い込まれて自殺して、

そんなことの何が正しいのか。私にはわからない。

 

 

 

と、当時の戴帽式を思い返しながら、

確かに美しい儀式だけど、神様に誓っても、

じゃあ、看護師のカリキュラムに、自分を愛することを導入すべきではないか。

それがあって初めて看護師は看護師の最大の力を発揮することができるのに。やっと、人様の看護がきちんとできるようになるのに。

看護学校に限ったことではないのかもしれない。

基礎教育から、新人教育から、甘っちょろいかもしれないし、何を当然のこと言ってんだって思われるかもしれないけど。

それが欠落しているから、今みたいな自殺者が年々増える国になってしまったのではないか。

 

自己犠牲が美しいなんて、植え付けるから、

みてもらえない子は、やってみるんだって。

私なんかいなくても、そういって消えていこうとするんじゃないの?

 

看護師たるもの、自分を愛してこそ、人の看護ができると思ってください。

自分に余裕があって、健康で、そこでやっと初めて

正常な看護ができるんですから。

それだけは忘れないでください。